第三話 木陰亭

 夜空の月明かりが最も強くなる頃合いに『木陰亭』は勿論のこと、あらゆるお店が店仕舞いとなる。

「ほらほら。出てった出てった。奥さんに言いつけるよ!」

 お母さんはお客さんをせっせと追い出す。おっとりしていて押しに弱いお母さんも、この時ばかりは強気である。

 過去に強情なお客さんに明け方近くまで居座られたことがあり、然しものお母さんも懲りたのだ。

 お客さんが居なくなると、私と母は客席を清掃し、お父さんは厨房で明日の仕込みをする。

 私とお母さんは、それぞれが今日のお客さんから聞いた笑い話をしながら掃除をするが、お父さんは厨房で一人黙々と作業に集中している。

 お祖父ちゃんが亡くなる前は、閉店後の仕込みはお祖父ちゃんとお父さんの二人でこなしていた。

 お祖父ちゃんは馬鹿馬鹿しい話を喋っては豪快に笑っていたし、お父さんも笑いながら仕込みをしていたものだ。

 作業が終われば、二階へ上がり、家族で食卓を囲む温かい団欒の時間があった。

 けれども今はお父さんが厨房でいつまでもブツブツと独り言をこぼしている。

「……どうにも上手くいかない。どうしたものか」

 明日の仕込みはとうに終えているはずなのに、お父さんは鉄鍋を持ちながら一人で反省会を続けている。

「親父みたいに振れないからむらが出る……。単純に筋肉量か? それとも手首の使い方か?」

 お父さんの料理は十二分に美味しい。

 それはお客さんの顔を見て、お客さんの声を聴いていれば分かることだ。

 だけど、お父さんは、家を守らなければならないという思いが強いばかりに、視野が狭まっている。

 今のお父さんは自分自身と向き合ってばかりだ。

 どうすれば自分は親父のようになれるだろうか。

 どうすれば親父のように正確で美味しい料理がつくれるだろうか。

 そのことばかりに気を取られている。

 自分のことばかりを見ていて、お客さんのことも、肝心要の家族のことさえも、抜け落ちてしまったのだ。

「お父さん、お風呂……」

 私が厨房の出入口から顔だけ出して声をかけると、お父さんはハッとしてこちらを向いた。

 私の後ろから片付けを終えたお母さんがやってきて、私の肩に優しく手を置いた。

「まだお仕事があるみたいだから。先にお母さんと入っちゃいましょう」

「……ううん。お父さんも一緒がいい」

 私がそう言うと、お父さんは困ったように眉尻を下げて、苦笑いをした。

「ソフィ。ごめんな。あと少しだけ仕事があるんだ。片付けたらすぐに行くからな」

 お父さんの疲れた笑顔と、お母さんの諦めたように微笑む姿が、夢の中の家族とだぶる。

『お父さんは疲れてるから、公園に行こうね』

 夢の中で、夫を気遣い諦め顔で笑っていた母の姿が、お母さんと重なり、私の頭を埋め尽くした。

 

「……やだ! お父さんも一緒! お風呂!」

 お店の手伝いもして、聞き分けが良く、大人びていると言われている私が、幼児退行したかのように癇癪を起こす。

 私は目から零れる大粒の涙を意にも介さず、その場で地団駄を踏む。

「ソフィ!?  どうした!?」

 お父さんはギョッとして手を止めて、私に駆け寄ってくる。

「お鍋のことばっかり! お風呂入る!」

 私が駄々を捏ねてお父さんのエプロンを引っ張って泣き叫ぶと、お父さんとお母さんは顔を見合わせた。

 普段大人びている私がここまで取り乱している。二人の顔には、何か不味いことが起きている、という危機感が浮かんだ。

「よしよし。ソフィは甘えん坊だもんなぁ。一緒に入ろうなぁ」

 お父さんは私をそっと抱き上げて、お風呂場に向かう。

 お母さんもお父さんの後をついてきて、抱っこされている私の顔を心配そうに観察していた。

 私たちは久しぶりに三人でお風呂に入り、お父さんとお母さんは努めて明るく振る舞ってくれた。

 風呂上がり。二階の寝室のベッドで、私たちは川の字になる。左手はお母さん、右手はお父さん。真ん中は私だ。

 お父さんは、落ち着かない様子で私に問いかける。

「ソフィ。最近、なにか嫌なことや怖いことはないか?」

「……うん。私、怖い夢を見るの」

 私が呟くように言うと、お父さんはホッとしたような、それでいて少し呆れたような顔をしながら息を吐いた。

「なんだ夢か。不審者でも出たのかと心配したよ」

 軽く笑って流そうとするお父さん。

 しかし、お母さんが真面目な声色で口を開いた。

「デオン。そうじゃないの」

「クセニア……?」

「ソフィが真夜中に起きて泣いていること、あなたは気付いてないでしょう?」

「……そうなのか?」

「えぇ。もう一年程になるわ。あなたのお父様が亡くなって、暫く経ってから」

 お母さんの静かな指摘に、お父さんの息がピタリと止まるのがわかった。

「……一年? でも、なんで教えてくれなかったんだ?」

「あなたは泥のように眠っていたから態々わざわざ起こすのは憚られたの。それにお店のことで手一杯のあなたに夢の話を相談するなんて、とてもじゃないけど言い出せないもの」

 お母さんの言葉は、お父さんの胸に鋭く突き刺さったようだった。

 お父さんは言葉を失い、月明かりに照らされた顔は青褪めていた。

「……ソフィ。その夢って、どんな夢なんだ?」

 震える声で尋ねるお父さんに、私は努めて冷静に話し始めた。

 夢の中のお父さんは、家族のために頑張っていたはずなのに、仕事が忙しすぎてお母さんともすれ違い、最後には家族がバラバラになってしまったこと。

 今のお父さんとお母さんが、あの夢の人たちと重なって見えて、とても怖かったこと。

「お父さん、お店のことで沢山悩んでる。でも、お祖父ちゃんは……お店が終わったら、いっぱい抱っこしてくれたよ」

 私の言葉に、お父さんは息を呑んだ。

「……そうだね、ソフィ。お祖父ちゃんは、そういう人だった」

 お父さんは、お祖父ちゃんを懐かしむように笑うと、潤んだ目を悟られまいと瞼を閉ざし、私を抱きしめた。

 お父さんは、私にお祖父ちゃんのことを語って聞かせる。

 お祖父ちゃんのことを話すお父さんは、いつも誇らしそうに笑うのだ。

「お祖父ちゃんはね。ソフィのお祖母ちゃんと結婚するためにこのお店を開いたんだよ」

「お祖母ちゃん?」

 私はお父さんの腕の中でもぞもぞと身動ぎして、お父さんの顔を見上げた。

「お父さんもお祖母ちゃんのことは直接は知らないんだけどね。でも、お祖父ちゃんからお祖母ちゃんの話は沢山聞かされてた」

「どんな人だったの?」

「お祖母ちゃんはね。それはそれは美しい人だったらしい。お祖父ちゃんは一目惚れをして何度も求婚したそうだ」

「何度も? すぐに結婚しなかったの?」

「お祖母ちゃんも憎からず思っていたみたいなんだけどね。でも、その時のお祖父ちゃんは冒険者だったんだ。明日がどうなるかも分からない人とは結婚できませんって、断られてたんだってさ」

「それでお店を開いたの?」

「そう! お祖父ちゃんは冒険者を引退して、どうにかお店を開いて、お祖母ちゃんと結婚することができたんだ」

「……『木陰亭』は、お祖母ちゃんのためのお店なんだね」

「……うん。そうだね。家族あってのっ、『木陰亭』なんだっ」

 お父さんの話は、終いには嗚咽交じりになってしまい、それ以上は話してはくれなかった。

 不意にお母さんの匂いがした。お母さんが私ごとお父さんを抱きしめたのだ。

 お祖父ちゃんが一番大事にしていた家庭を自らの手で壊しかけていたのだと、お父さんが後悔し、お母さんはお父さんを抱きしめて慰めている。

 大変結構なことである。でも、二人の間に挟まれた私は、ぎゅうぎゅうと押しつぶされて、それどころではなくなったのだった。