やがて、シェタさんは目を覆っていた右手をゆっくりと下ろした。
目尻が赤い。だけど、その瞳には先程までの曇りがなく、透き通った光が宿っていた。
「……失礼。取り乱しました」
シェタさんは掠れた声でそう言い、目尻を指で拭った。
お母さんが心配そうに声を掛ける。
「シェタさん。……大丈夫ですか?」
「えぇ、ご心配なく」
シェタさんは首を横に振った。
「ただ、思い出したのです。……大事なことを失念していたことに」
「思い出した?」
私が首を傾げると、シェタさんは微笑んで続けた。
「お嬢さんの言葉ですよ。客の幸せが自分達の幸せに繋がる、と」
私は小さく頷いた。
シェタさんは目を閉じて、自嘲気味に「ふぅ」と溜息を吐いた。少しの沈黙の後、語り始めた。
「私を拾ってくださった師匠も、同じだったんですよ」
シェタさんの声が、僅かに震えた。シェタさんが職人になったきっかけの、あの時の「とある親方」が、師匠なのだろう。
「師匠はよく言っていました。『困った時はお互い様だ』と」
私たちは、静かにシェタさんの言葉に耳を傾けている。
「師匠は――早くに亡くなりました。私が独り立ちする前のことです」
シェタさんの声は穏やかだった。その穏やかさが、逆に胸に染みた。
「師匠のことを悪く言う者は、この街には一人も居りません」
――お祖父ちゃんも同じだ。
「お祖父ちゃんも……」
私は静かに言うと、シェタさんは私の顔を見つめ、ゆっくりと頷いた。
「はい。同じです。亡くなってなお、皆の心の中に生きている。あの人は良い人だった、と」
シェタさんは、そこで言葉を切った。私たちは、シェタさんの言葉を待つ。
「――翻って、私はどうでしょう」
シェタさんの声が、急に低くなった。
「師匠は私に、その生き様を背中で示してくださった。それなのに私は、今の今まで失念していた」
シェタさんの眉間に皺が寄る。
「これでも、師匠に恩返しはしたつもりです。師匠のご家族にも。……でもそれは、施された御恩を返した、それだけです。私は、師匠の意志を受け継いではいません」
その声には悔恨が滲んでいた。
「自分の人生はもう終わっている、という意識だったからでしょうね」
シェタさんは自嘲するように薄く笑って、首を横に振った。
「せめて、借りは返さないといけないという気持ちだけで、未来に目を向けることができなかった」
シェタさんの目には、もう涙はなかった。その代わりに、何かを決意したような強い眼差しがあった。
シェタさんは居住まいを正して言う。
「あなた方は、先代の遺した志を受け継いでいらっしゃる」
シェタさんは私を見て、お父さんを見て、お母さんを見た。それから、もう一度私に視線を戻した。
「『木陰亭』の先代も、私の師匠も、その善行は死後も在り続け、この街の人々の中に生きています」
シェタさんは窓の外を見た。通りを行き交う人々の姿が見える。
「だから、私もこの街で誰かに親切にすれば、いつか巡っていくでしょう」
シェタさんの声に力が籠る。自分に言い聞かせるように、目を閉じて上を向きながら続ける。
「それがいつか、祖国に残した家族を助けることがあるかもしれない」
シェタさんは力を抜いてフフッと笑った。
「……勿論、そんなことにはならないかもしれません。けれど、何もしないよりは、幾分マシというものでしょう?」
お父さんが深く頷いた。
お母さんは微笑みながら言う。
「では人助けの第一歩として、是非お弟子さんたちをお連れになってくださいな」
「えぇ、大勢連れて来ますとも! その代わり、おまけは期待しておきますよ?」
シェタさんは不意に口元を緩めて、おどけた調子で付け加えた。
「あらまぁ。お手柔らかにお願いします」
お母さんが笑い、私とお父さんも思わず笑った。シェタさんも一緒になって、声を出して笑った。
さっきまでの重い空気が嘘のように、温かい笑い声が店内に響いた。
シェタさんはワインを飲み干して、コップをテーブルにことりと置いた。
「ご馳走様でした」
シェタさんはそう言って、懐中からお金を取り出し、テーブルの上に置く。
「お代は結構です! ご迷惑をおかけしてしまったのに……」
お父さんは慌ててそう言ったが、シェタさんは頭を横に振ってお父さんの申し出を固辞した。
「それでは」
シェタさんは席を立ち、私に向き直った。
「お嬢さん」
「は、はい!」
油断していた私は声が裏返ってしまった。
「あなたの話は、なかなかどうして、心揺さぶられました」
シェタさんはそう言って、背筋を伸ばしてから、綺麗なお辞儀をした。
私も慌てて頭を下げる。私が顔を上げると、シェタさんは目尻の皺を寄せて微笑んでいた。
私もニッコリと笑顔を返すと、シェタさんは身を翻して、出口へ向かった。
私は窓から通りを覗いた。
シェタさんが足取り軽く石畳の通りを歩いていく。私はどんどん小さくなっていくシェタさんの背中を見つめる。
シェタさんの姿が通りの角に消えるまで、私は窓の外を眺めていた。