第十一話 情けは人の為ならず

 私は口を閉じた。自分で言いながら、自らの言葉の重さに気付いていた。

 ――祖国を追われた過去を軽んじている。家族のために静かに死を待つその覚悟を侮辱している。

 そう受け取られても仕方がないだろう。したり顔で「背後世界だから囚われなくていい」だなんて。

 シェタさんは何も言わない。シェタさんは私の目を真っ直ぐに見つめていた。その表情は、何かを思案しているようにも見えた。

 私は誤解を解こうと早口で説明を始めた。

「こ、これはね! 否定してるわけじゃないの! 過去なんて意味がないってことじゃなくって、むしろ逆なの!」

 私は慌ただしく身振り手振りを交えながら、必死に訴えた。

「えっとね。今この瞬間を前向きに積極的に肯定できるってことは、過去の出来事も受け入れているってことでしょ?」

 私は少し呼吸を落ち着けて続ける。

「過去の出来事があってこその今の自分なんだって考えると、今の自分を肯定することは、過去の出来事を経験した自分を肯定することだ、とも言えるでしょ?」

 シェタさんは、私の言葉に何も言わなかった。ただ、じっと私を見つめている。その視線に、私は居心地の悪さを感じた。

 なんだか、私は墓穴を掘っている気がする。

 私が言っていることは結局、『過去に家族と今生の別れを経験したけど、それも今となってはいい思い出でしょ?』と言っているようなものだ。どの道、無礼極まりないじゃあないか。

「えぇっと……。だから、その……」

 ――怒っているだろうか。

 沈黙が重い。店内がとても静かだ。いつの間にか、シェタさん以外のお客さんは誰も居なくなっていたようだ。

 遠くから聞こえる荷馬車の車輪の音や、街の喧騒が、やけにはっきりと耳に届く。

 私は居たたまれなくなって、自分の指先をもじもじと弄り始めた。

 不意に、厨房の方から足音が聞こえた。

「シェタさん、すみません」

 お父さんの声だ。振り向くと、お父さんがワインの入った陶器のコップを片手に持ち、お母さんと並んでこちらに歩いてくるところだった。

 お母さんは申し訳なさそうに眉を下げている。

「失礼をお詫びします」

 お父さんはそう言ってコップをシェタさんの前にそっと置き、頭を下げた。お母さんも隣で頭を下げている。

「いやいや! どうぞお気になさらず」

 シェタさんは柔らかく手を振って、ハハハと笑ってみせた。

 私が呆けていると、お母さんが私の頭をぺしりとはたいた。

「アタッ」

 私は頭を押さえながら、お母さんを見上げる。

 お母さんは私に目もくれず、シェタさんに顔を向けている。そして、頬に右手を当てて困ったように言った。

「すみません、不躾で。聡い子だとは思っていたのですが、近頃は賢しらなことも言うようになって……」

「いやいや、滅相もない。なかなかどうして、ご息女は聡慧であられる」

 シェタさんは、うんうんと頷きながらお父さんとお母さんを交互に見て、それから私に目を戻した。

 私は慌てて頭を下げて謝る。

「ご、ごめんなさい……」

 シェタさんは鷹揚に「大丈夫、大丈夫」と繰り返した。

 私とシェタさんのやり取りを見ていたお父さんが、思案気な顔で口を開いた。

「烏滸がましいお願いですが、身の上話を少し聞いてもらえますか?」

 お父さんは真面目な顔でそう切り出した。シェタさんはコップを手に取り、ワインを一口含んでから頷いた。

「えぇ。どうぞ」

「私はずっと、先代の料理を再現することばかりに執着していたんです」

 お父さんは自分の両手を見下ろしながら言った。

「ほう?」

 シェタさんが興味深そうに眉を上げた。

「先代の味を受け継ぐには、段取りも、道具も、何もかも、先代と同じにしなければと。そうでなければ駄目だと。私は本気でそう思っていました」

「……先達の背中が大きいと、後進は苦労するものですからね」

 シェタさんは目を細めた。お祖父ちゃんの料理を思い起こしているのか、自分の師匠のことを思い起こしているのか、或いはその両方か。

「仰る通りです。結局、私は家族に心配をかけただけでした」

 お父さんは苦笑した。お母さんは隣で腕を組んでうんうんと頷いている。

「先日、気付きがありました。店を受け継ぐというのは、味や技術だけを受け継ぐことではない、と」

「ほう?」

「先代の料理は確かに美味い。でも、料理は料理です。全く同じ味でなくとも、美味しいものは美味しい。……当たり前ですよね?」

 お父さんは照れ臭そうに、ハハッと笑う。

「私は、先代が人に向き合っていたことを失念していました。お客さんの話を聞いて、笑わせて、時には共に頭を悩ませる。それが先代の人徳……父の偉大さだったのだと、今更ながらに思い出しました」

 お父さんの声は穏やかだったが、一言一言に力がこもっていた。

 シェタさんはじっと聞いている。

「父が亡くなっても通い詰めてくださる昔馴染みは、父が築いてきた信頼の証です。私たちは、信頼を裏切らないためにも、父と同じようにお客さんと向き合っていこうと決めたのです」

 お父さんはそこで言葉を切り、照れ臭そうに頭を掻いた。

「すみません。若輩者の分際で、偉そうに。しかも、結果として娘がご迷惑をおかけする始末……」

「いいえ」

 シェタさんは首を横に振った。その表情は、先程までとは少し変わっているように見えた。

 お母さんがシェタさんのコップにワインを注ぎ足しながら、おっとりとした声で口を添える。

「シェタさんが来てくださること、義父ちちはとても喜んでいたんですよ」

「それはそれは。有り難いことです」

 シェタさんは注がれたワインに目を落とした。

 私はお父さんとお母さんの言葉に背中を押されて、もう一度口を開いた。

「あのね、シェタさん」

 シェタさんが私に視線を戻す。

「私、お祖父ちゃんの真似をしてみようと思ったけど、上手くできなくて……。ごめんなさい」

 私は両手をテーブルの上で握り締めて、少し早口でそう言った。

 シェタさんは、私の顔をじっと見つめていた。その目が、微かに見開かれていた。

「お客さんが幸せだったら、私たちも幸せでしょ? だから私もお祖父ちゃんみたいにシェタさんを笑顔にしたかったんだけど……」

 シェタさんの喉仏が、こくりと動いた。

 コップを持つ手が震えている。ワインの水面が小刻みに揺れているのが見えた。

 ――シェタさんの目に、光るものが浮かんでいた。

 シェタさんは目を閉じて、深く息を吸い込んだ。吐く息が震えている。

 しばしの沈黙の後、シェタさんは目を開いた。その瞳には、先程までの曇りがなかった。

「情けは人の為ならず……」

 シェタさんは自分に言い聞かせるように、ゆっくりと言葉を紡いだ。

 シェタさんは声を震わせ、右手で目を覆い、暫く黙った。

 私たち家族は、どう声を掛けたものかと顔を見合わせたが、言葉が見つからない。

 窓から差し込む陽が、肩を小さく揺らしているシェタさんの顔を明るく照らしていた。

 シェタさんの脳裏には、誰かの顔が浮かんでいるようだった。