第十二話 困った時はお互い様

 やがて、シェタさんは目を覆っていた右手をゆっくりと下ろした。

 目尻が赤い。だけど、その瞳には先程までの曇りがなく、透き通った光が宿っていた。

「……失礼。取り乱しました」

 シェタさんは掠れた声でそう言い、目尻を指で拭った。

 お母さんが心配そうに声を掛ける。

「シェタさん。……大丈夫ですか?」

「えぇ、ご心配なく」

 シェタさんは首を横に振った。

「ただ、思い出したのです。……大事なことを失念していたことに」

「思い出した?」

 私が首を傾げると、シェタさんは微笑んで続けた。

「お嬢さんの言葉ですよ。客の幸せが自分達の幸せに繋がる、と」

 私は小さく頷いた。

 シェタさんは目を閉じて、自嘲気味に「ふぅ」と溜息を吐いた。少しの沈黙の後、語り始めた。

「私を拾ってくださった師匠も、同じだったんですよ」

 シェタさんの声が、僅かに震えた。シェタさんが職人になったきっかけの、あの時の「とある親方」が、師匠なのだろう。

「師匠はよく言っていました。『困った時はお互い様だ』と」

 私たちは、静かにシェタさんの言葉に耳を傾けている。

「師匠は――早くに亡くなりました。私が独り立ちする前のことです」

 シェタさんの声は穏やかだった。その穏やかさが、逆に胸に染みた。

「師匠のことを悪く言う者は、この街には一人も居りません」

 ――お祖父ちゃんも同じだ。

「お祖父ちゃんも……」

 私は静かに言うと、シェタさんは私の顔を見つめ、ゆっくりと頷いた。

「はい。同じです。亡くなってなお、皆の心の中に生きている。あの人は良い人だった、と」

 シェタさんは、そこで言葉を切った。私たちは、シェタさんの言葉を待つ。

「――翻って、私はどうでしょう」

 シェタさんの声が、急に低くなった。

「師匠は私に、その生き様を背中で示してくださった。それなのに私は、今の今まで失念していた」

 シェタさんの眉間に皺が寄る。

「これでも、師匠に恩返しはしたつもりです。師匠のご家族にも。……でもそれは、施された御恩を返した、それだけです。私は、師匠の意志を受け継いではいません」

 その声には悔恨が滲んでいた。

「自分の人生はもう終わっている、という意識だったからでしょうね」

 シェタさんは自嘲するように薄く笑って、首を横に振った。

「せめて、借りは返さないといけないという気持ちだけで、未来に目を向けることができなかった」

 シェタさんの目には、もう涙はなかった。その代わりに、何かを決意したような強い眼差しがあった。

 シェタさんは居住まいを正して言う。

「あなた方は、先代の遺した志を受け継いでいらっしゃる」

 シェタさんは私を見て、お父さんを見て、お母さんを見た。それから、もう一度私に視線を戻した。

「『木陰亭』の先代も、私の師匠も、その善行は死後も在り続け、この街の人々の中に生きています」

 シェタさんは窓の外を見た。通りを行き交う人々の姿が見える。

「だから、私もこの街で誰かに親切にすれば、いつか巡っていくでしょう」

 シェタさんの声に力が籠る。自分に言い聞かせるように、目を閉じて上を向きながら続ける。

「それがいつか、祖国に残した家族を助けることがあるかもしれない」

 シェタさんは力を抜いてフフッと笑った。

「……勿論、そんなことにはならないかもしれません。けれど、何もしないよりは、幾分マシというものでしょう?」

 お父さんが深く頷いた。

 お母さんは微笑みながら言う。

「では人助けの第一歩として、是非お弟子さんたちをお連れになってくださいな」

「えぇ、大勢連れて来ますとも! その代わり、おまけは期待しておきますよ?」

 シェタさんは不意に口元を緩めて、おどけた調子で付け加えた。

「あらまぁ。お手柔らかにお願いします」

 お母さんが笑い、私とお父さんも思わず笑った。シェタさんも一緒になって、声を出して笑った。

 さっきまでの重い空気が嘘のように、温かい笑い声が店内に響いた。

 シェタさんはワインを飲み干して、コップをテーブルにことりと置いた。

「ご馳走様でした」

 シェタさんはそう言って、懐中からお金を取り出し、テーブルの上に置く。

「お代は結構です! ご迷惑をおかけしてしまったのに……」

 お父さんは慌ててそう言ったが、シェタさんは頭を横に振ってお父さんの申し出を固辞した。

「それでは」

 シェタさんは席を立ち、私に向き直った。

「お嬢さん」

「は、はい!」

 油断していた私は声が裏返ってしまった。

「あなたの話は、なかなかどうして、心揺さぶられました」

 シェタさんはそう言って、背筋を伸ばしてから、綺麗なお辞儀をした。

 私も慌てて頭を下げる。私が顔を上げると、シェタさんは目尻の皺を寄せて微笑んでいた。

 私もニッコリと笑顔を返すと、シェタさんは身を翻して、出口へ向かった。

 私は窓から通りを覗いた。

 シェタさんが足取り軽く石畳の通りを歩いていく。私はどんどん小さくなっていくシェタさんの背中を見つめる。

 シェタさんの姿が通りの角に消えるまで、私は窓の外を眺めていた。