第十話 背後世界と虚無主義

 シェタさんが今まで話してくれたことを並べてみる。

 ――祖国を追われ、身一つで異国にやって来た。

 ――物作りに没頭して、気付いたら親方になっていた。

 ――でも今は、かつてのような手応えを感じられない。

 ――仕事以外に打ち込めるものがない。

 シェタさんは、仕事に没頭している間は良かったのかもしれない。新しいことを覚えて、腕を上げて、認められて。それが生きている実感になっていた。

 でも、親方になって、もう登る先が見えなくなった時――シェタさんの中で、ぽっかり穴が空いたのだろう。

 そして、その空っぽになった場所に、過去の後悔が流れ込んできた。

 祖国の家族のこと。あの時、別の選択をしていれば、という後悔。

 仕事に没頭して忙殺されていた頃は気にならなかったものが、目に付くようになったのだろう。

「シェタさん」

 私はシェタさんの目を真っ直ぐ見つめた。

「自分の人生の役目はもう終わってるって言ってたよね? 大人しくここで死を待つことが役目だって」

 シェタさんは静かに頷いた。

「ええ。そう申しました」

「でも、シェタさんはお仕事に夢中になってた時期があったんだよね?」

「ええ」

「その時のシェタさんも、死を待ってたの?」

 シェタさんの目が、微かに見開かれた。

 私は構わず続ける。

「夢中で手を動かして、昨日より今日、今日より明日、上達するのが嬉しい。それって、ただ黙って死を待ってる人のすることじゃないよね?」

 シェタさんは何も言わなかった。ただ、こちらを見つめていた。

 私は、朧気になっていた今朝の夢の内容が、徐々に鮮明になっていくのを感じていた。

 ――夢の中で聞いた、あの言葉だ。

 私は言葉を選びながら、ゆっくりと続けた。

「私ね。異国の偉い人の話を思い出したの」

「ほう、異国の? 勉強熱心なことですね」

 シェタさんは孫を褒めるように、ふふっと笑った。

「……まぁ、飽く迄も聞いた話なんだけどね」

 私は夢の話をしていることが無性に恥ずかしくなり、誤魔化すように頬をぽりぽりと掻いて、ばつが悪い気持ちのまま続けた。

「その人はね、人は誰でも『背後世界』っていうものを持ってるって言ったの」

「背後世界……」

「今ここにある現実の世界は、見たり触れたりできる物の世界。その背後にあるのが背後世界。それは見たり触れたりできないモノの世界。例えば、正義や愛は目に見えないし触れることもできないよね?」

 私は両手でハートマークを作って、かわい子ぶりっ子しながら説明する。

 シェタさんは黙って聞いている。その表情は、孫の話を聞くお祖父ちゃんのそれだった。

「でも、背後世界はいつか壊れるものなんだってさ」

「おや? 壊れてしまうのですか?」

「うーん。壊れるって言い方は過激だったかも? 例えば『これぞ人生を掛けるに値する仕事だ!』って仕事に意気込む時期があっても、仕事に慣れて日常になると充実感は薄れていっちゃうよね?」

「……えぇ、そうですね。思い当たることはあります」

「つまり『仕事に人生を掛けるほどの意味はない』って冷めちゃうってこと。情熱が薄れて、夢を追いかけたりせずにただ日々忙しく仕事をこなすだけの人も居るよね?」

「ふむ。……うちの若手にもそういう者は居ますね」

 シェタさんは顎に手を当てて、誰かの顔を思い浮かべているように天井を見上げる。

「そうやって、背後世界に意味なんてないんだって気付くと、人生さえも無意味に感じちゃうの。『どうせ何をやっても意味なんてないんだ』って。その状態のことを虚無主義ニヒリズムって言うんだってさ」

「虚無……。成程。虚しくなってしまう、と」

「うん。シェタさんも虚しくなってるんじゃない? 仕事の背後世界は、もう壊れちゃったんだよね? 親方になって、追い求めるものがなくなって」

 シェタさんの喉が微かに動いた。

 窓から差し込む光が傾いて、テーブルの上に長い影を落としている。シェタさんの顔は半分だけ陽に照らされて、もう半分は影の中にあった。

「……面白い考えですね」

 シェタさんの声は掠れていた。

「その異国の人は、虚無主義になったらどうすべきだと言っているのですか?」

「その人はね、『超人』になれって言ったの」

「超人?」

「うん。今この瞬間をありのままに受け入れて、積極的に肯定できる強い意志を持った人のこと」

 シェタさんは眉を上げた。

「それは……。なんともはや」

「うん。言うは易しってやつだよね」

 私は、それが出来たら苦労はない、とばかりに肩をすくめてみせた。

「でも、直ぐに超人にはなれなくても、別の生き甲斐を見つけるって方法はあると思うの」

「別の生き甲斐……。つまり、仕事とは別の背後世界を見つけろと? どうせ背後世界はいつか壊れるというのに?」

「うん。いつか壊れるから何をするのも無意味だ、という考えもできるけど、裏を返せば、いつか壊れるってことはその程度のことなんだよ。絶対的な価値があるものじゃないって考えもできるでしょ?」

「……絶対的な価値はない、か」

「そう。背後世界は、気に病むほど囚われることはないんだよ。もっと気楽に付き合っていけばいいことなんだと思うよ」

「成程、成程。もっと肩の力を抜きなさい、と」

 シェタさんは肩を動かして脱力する素振りをしておどけてみせた。

 私も調子を合わせて、続ける。

「そうそう。気楽に前向きに生きましょうってことだね」

 私とシェタさんは、ハハハと笑いあった。

 少しの間を開けて、私は一転して真面目な顔でシェタさんに語り掛ける。

「……背後世界には過去と未来も含まれるの。既に過ぎ去った過去や、まだ起きていない未来は、見たり触れたりできないから背後世界と言えるでしょ? 今この瞬間・・・・・だけが見たり触れたりできる現実の存在。だからね――」

 私は、言い辛いことを口にするように、言葉を区切りながら話す。

「シェタさんが、祖国を追われることになった過去や、家族のためにここで死ぬという未来も、背後世界なの。気に病むほど囚われるような、絶対的なものじゃ、ないんだよ……」

 私は、段々声が小さくなっていき、最後は消え入るような声で締めくくった。

 シェタさんは無表情で何も言わず、ただ静かに私を見つめていた。