第九話 仕事が生き甲斐

 シェタさんの中にあるモヤモヤの正体。それは、祖国の家族に二度と会えないことだけじゃない。もう少し、何か別のものも絡まっている気がする。

 お祖父ちゃんならきっと、もっと上手にほどいてあげられたんだろうけど。

 ――でも、お祖父ちゃんはもう居ないのだから。私がやらないと。

 私は小さく息を吸って、シェタさんに声をかけた。

「ねぇ、シェタさん。こっちに来てからのことは?」

 シェタさんは窓の外に向けていた視線を、ゆっくりとこちらに戻した。

「こちらに来てから、ですか」

「うん。こっちに来て、どうやって暮らしてきたの?」

 シェタさんは少し考えるように顎に手を当てた。テーブルに置かれたワインのコップの中で、赤い液体が午後の光を受けて揺れている。

「右も左も分からぬ異国の地で、身一つで放り出されたものですから。最初の頃は、港で荷を担いだり、建築の現場で石を運んだり。そうやって食い繋いでいました」

「肉体労働? シェタさんが?」

 私がそう聞き返すと、シェタさんは苦笑した。

「ええ。知恵働きをしようにも伝手がありませんでしたから。最初のうちは、それはもう大変で。毎晩体中が軋んで眠れなかったものです」

 シェタさんは昔を懐かしむように自分の掌を見つめた。掌にある傷跡から、当時の出来事を思い出しているのかもしれない。

「職人さんの仕事はいつから?」

「荷運びの現場で、職人たちの仕事を間近で見る機会があったのです」

 シェタさんの声に、微かに熱が帯びた。

「一見すると単純に見える柱でさえ、柱と柱の間隔を変え、柱の太さを変えている。目の錯覚を考慮して計算し尽くされていました。当時の私は、職人と言えば細やかな造形を作るものだと思っていましたから、見識の狭さを思い知らされました」

「それが今や親方さんなんだもんね」

 私は勝手に誇らしい気持ちになって、得意気に言った。

 シェタさんは私の言葉に、微笑みながら頷いた。

「ええ。結果的にはそうなりました」

 シェタさんはワインを一口含んで、続けた。

「とある親方が、身寄りのない私を気にかけてくださったのです」

 シェタさんは思い出し笑いをするように「ふっ」と笑って、続けた。

「駆け出しの私では全体の設計なんて遠い話でしたから。親方は『まずは簡単な装飾からだ』と、私に仕事を任せてくれました。そして段々とのめり込んでいったのです」

「のめり込んだ?」

「ええ。素材と向き合うと、素材の癖が分かってきます。私には作りたい形がある。でも素材にも向き不向きがある。それは素材との対話のようでもあり、自分自身との問答のようでもありました。その過程が……なんと言いますか」

 シェタさんは言葉を探すように視線を宙に泳がせた。

「昨日よりも今日、今日よりも明日、私はどんどん素材の言いたいことが理解できていく。そう感じられる瞬間が、たまらなく嬉しかったのです」

 シェタさんはそう言って、はにかんだように笑った。娘さんのことを語っていた時とも違う、少年のような笑みだった。

「毎日が新鮮でした。覚えることが山のようにあって、それを一つずつ身に付けていく手応えがありました」

 テーブルの上で、シェタさんの指が機嫌良さそうにトントンと調子よく動いている。

「じゃあ、今も楽しい?」

 シェタさんの指が、ぴたりと止まった。

「今、ですか」

 沈黙が落ちた。

 窓の外から、鳥の鳴き声が聞こえる。

「楽しくないと言えば、嘘になります」

 シェタさんは慎重に言葉を選んでいるようだった。

「ですが……以前ほどの感覚は薄れてしまいました」

「感覚?」

「毎日何かを吸収して、自分が変わっていく、成長の感覚です。今はもう、新しいことを覚えることもなくなりました。若い者に教える立場になると、自分の手を動かす時間も減って……。いや、もちろんやりたくてやっていますし、若い者の成長を見届けるのは嬉しいのですが」

 シェタさんはそこで言い淀んだ。コップの淵を親指でなぞりながら、どこか遠くを見るような目をしている。

「親方になってから全体設計をする機会にも何度か恵まれました。ですが実際にやり遂げてみると、こんなものか、と……。なんだか寂しい気持ちになったものです」

 シェタさんの言葉は、段々とか細くなっていった。

 私はシェタさんの表情を見つめた。さっきまでの少年みたいな笑顔はもうなく、顔に疲れが滲んでいた。

「お仕事の他に、何か楽しいことってある?」

「仕事以外?」

 シェタさんは首を傾げた。

「暇な時はコレをするのが楽しみ! みたいな」

「うーん」

 シェタさんは本気で考え込んでいる様子だった。腕を組み、天井を仰いで、それから困ったように眉を下げた。

「家に帰ったら、明日の段取りを考えたり、道具の手入れをしたりですが。それが楽しみかと言うと……。ふむ。強いて言うならば『木陰亭』の料理が楽しみですかな?」

 シェタさんはおどけた調子で言った。

 視界の端で、お母さんが「まぁ」と、シェタさんのお世辞に笑顔で応じているのが見えた。

 私は人差し指で眉間をトントンと叩きながら、頭の中でシェタさんが今まで話してくれたことを整理し始めた。