第五話 お祖父ちゃんの思い

 あの夜の話し合いから数日。『木陰亭』の厨房から聞こえる音が変わった。

 以前のお父さんは、お祖父ちゃんが使っていた大きな鉄鍋を無理に振るおうとして、いつも肩で息をしていた。

 だけど今は、お父さんの体格に合わせた比較的小さい鉄鍋がいくつも並んでいる。

「よし、こんなもんだろう。お次は……」

 鉄鍋を複数並行して調理するのは、火加減も焼き時間も今までと勝手が違う。お父さんの額には相変わらず汗が滲んでいるけれど、以前のような思い詰めた顔はしていなかった。

 お父さんは、手探りながらも自分に見合った型を見つけたことで精神的にもゆとりが生まれたらしい。お父さんが時折、厨房から顔を覗かせて客席を見渡すようになったことがその証左だ。

 お父さんは、お客さんの美味しいという感想を聞いては、口角を上げ、また調理に集中する。

 お昼の書き入れ時を過ぎると、お客さんが客席から居なくなっていく。

 お客さんが皆無になるのを確認したら、私は厨房前のカウンター席に駆け寄り、椅子の前で両手を上げて万歳の姿勢をとる。

「ん!」

 カウンター席の椅子は私の背丈には高すぎるので、お母さんに手伝ってもらうのだ。

 お母さんは私の背後に立ち、私の脇の下に手を当てて、よいしょ、と小さく呟きながら私を持ち上げて椅子に座らせてくれる。

 私が座りが良い位置を探してモゾモゾと尻を動かし居住まいを正している間に、お母さんは隣の席に着席していた。

「お昼ご飯は何がいい?」

 お父さんが厨房から私に声をかけてくる。『木陰亭』の賄は、私の食べたい料理が出てくる仕組みなのだ。

「白身魚の揚げ焼き!」

「応とも! 本当に揚げ焼きが好きだなぁ」

 お父さんは、私が飽きもせず毎日のように揚げ焼きを食べたがることに呆れているのか、小さく笑った。

 お父さんは慣れた手つきで手際よく調理を進めていく。私は両手で頬杖をつきながら、その様子をぼんやりと眺める。

 隣に目をやると、お母さんも両手に頬杖をつきながらお父さんを眺めていた。

 お父さんが焦ることなく慌てずゆったりと料理をするのは、家族のご飯を作る時だけ。私もお母さんも、そんなお父さんの姿が好きなのだ。

「最近、お祖父ちゃんのことをよく思い出すんだ」

 お父さんは、魚に火が通るのを待つ間、私をチラリとだけ一瞥して、そう言った。

「忙しい合間を縫ってはお客さんと話していた後ろ姿を、今、思い出してた」

 お父さんは魚の焼け具合を気にしながらそう言い、お母さんにも視線を送る。

 私とお母さんは、お祖父ちゃんの姿を思い出しながら、二人してうんうんと頷いた。その様子を見て、お父さんは続ける。

「この一年は我武者羅に没頭してたから、お祖父ちゃんのことを思い出す暇もなかったんだなぁって、気が付いた。……薄情かな?」

 家族が亡くなった時、葬儀や手続きで遺族が忙殺されるのは、一度に強烈な衝撃を受けて心が壊れないように、作業に没頭させて心を守るためだと聞いたことがある。つまり、お父さんが一年も没頭してたのは、裏を返せば――

「……そんなことないわ。それだけ、私たちにとってお義父様は大きな存在だったのよ」

 お母さんは微笑みながら、落ち着いた様子でお父さんに語りかけた。

 お父さんは天井を見上げる姿勢になって目を瞑り、数秒沈黙したかと思うと、目を開いてお母さんを見る。

「違いない!」

 お父さんは吹っ切れたように元気よく、ニカっと笑顔を向けた。

「さぁ! 出来たぞ!」

 お父さんはテキパキと手際良く白身魚の揚げ焼きをお皿に盛り付けて、料理をカウンター席まで持ってくる。

 お父さんのお皿は子供の私が食べる量よりも少なく盛られている。お父さんは味見をしながら料理を作るから、お昼ご飯を少なくしているのだ。

 お母さんが立ち上がってお父さんからお皿を受け取る。

「待ってました!」

 お母さんはそう言いながら笑顔でお皿を受け取ると、お皿に顔を近づけて香りを楽しむ。

「ん~! 美味しそう!」

 お母さんのお皿は、私のお皿と比べると三倍ぐらい多く盛られている。お父さんにしっかりと胃袋を掴まれていることが窺い知れる。

「早く早く!」

 私がお父さんを急かすと、お父さんはお皿を私の目の前に置いた。

 私はお母さんに倣って、鼻で大きく息を吸い込んだ。果実油の華やかな青々しい匂いが楽しい。口の中が涎で満たされる。

 癖のない白身魚に特徴的な香りの果実油は相性がいい。なにより、カリカリに焼かれた魚の皮が絶品なのだ。

 早く食べたい!

 私はお父さんとお母さんが席に着くのを急かすように、二人の顔を交互に見る。キョロキョロと何度も。

 お父さんとお母さんが苦笑いしつつ着席する。

 全員が着席したら、私たちは三人揃って両手を合わせる。

「頂きます!」

 私は待ちきれないとばかりに食べ始めた。魚の身から食べ始めて、魚の皮は最後に食べる。私は好物を最後まで取っておく主義なのだ。

 お父さんとお母さんは会話しながら食事をしているが、私の耳には内容が入ってこない。魚の皮を頬張っている時に他のことなんて考えられるわけがないからだ。

 白身魚の揚げ焼きを食べ終えたら、皿に残っている果実油を千切ったパンで拭い取り、果実油を余すことなく堪能する。

 お皿が綺麗になった頃、私は人心地ついた。

「ふぅー。美味しかったー」

 私は水を一杯飲み干し、満腹になった多幸感を持て余すように目をパチパチと瞬かせた。

 そのまま暫く空になったお皿に視線を落とし、ぼーっと眺めていたのだが、不意にお父さんとお母さんの会話が途切れたことに気が付いた。

 私が顔を上げると、お父さんとお母さんが私のことを見て、ニンマリと微笑んでいた。

 私は気恥ずかしく思い、頭を少し左右に振って居住まいを正して、お父さんに向かって感謝を伝えた。

「ご馳走様でした!」

「はい。お粗末様でした」

 お父さんはそういうと、空いた食器を厨房の流し台に持っていく。

 私は椅子から降ろしてもらうべく両手を上に上げた。

「ん!」

 お母さんに万歳の姿勢を以て訴えかけ、無事に床に降ろしてもらった私は小走りでお父さんの後を追う。

 お父さんは既に流し台で食器を洗っている。私は急いで厨房の小棚に仕舞ってある香木を一本手に取った。断面が四角く細長い棒状の香木だ。

 私はかまどの前にしゃがみ、残り火に香木をべる。香木に火が移ったことを確認して、暫くの間、目を閉じて手を合わせる。

 香木が燃えると、香辛料のような香ばしさの中に甘みや苦みを含んだような複雑な香りが漂う。竈神かまどがみ様はこの香りが大層お好きなのだそうだ。

「今日もお昼ご飯美味しかったです……。魚の皮は何故あんなに美味しいのか……。もっと皮が分厚い魚が居たらどれだけ幸せなことか……」

 私はブツブツと独り言のようにご飯の感想を述べながら、合掌した手をスリスリとこすり合わせる。竈神様に私の思いを伝え切ったら、合掌を止めて目を開ける。

 お父さんとお母さんもそれぞれの片付けを済ませたら、私の両隣にしゃがみ込み目を閉じて手を合わせる。

 お父さんとお母さんは私のようにペラペラと喋ることなく、黙って祈りを捧げた。

 その後は、三人で香木が燃える様子を眺める。小さくパチパチと燃える音が心地良い。

「お父さん、さっきの話だけど」

 私はお父さんには顔を向けず、燃える香木を眺めながら話しかけた。

「さっきの話?」

 お父さんが私の方に顔を向けようと動いたのが視界の端に映る。

「うん。お祖父ちゃんのこと、私も思い出してた。お祖父ちゃんは悩みを聞いてあげてた」

「悩み?」

「うん。お祖父ちゃんは四方山話よもやまばなしや与太話でお客さんのことを笑わせてたけど、それ以上にお客さんの悩みも聞いてた。お祖父ちゃんが話を聞くとね。皆、笑顔になるんだ」

 私は話しながら首を左右に振り、お父さんとお母さんの顔を交互に見た。

「……そうね。俯いてたお客さんもお祖父ちゃんと話せば、終いには顔を上げて溌剌はつらつとした顔で帰っていったものね」

 お母さんは目を閉じて、お祖父ちゃんの姿を思い浮かべている様子で、そう言った。

「そうだ! 料理だけじゃないんだ!」

 お父さんは突然大きな声を出し、興奮したようにそう言った。

 私とお母さんがポカンとしていると、お父さんは、恥ずかしそうに頭を掻きながら続ける。

「ごめん。えぇと。お祖父ちゃんは料理でお客さんを笑顔にしてただろ?」

 私はうんうんと首を縦に振る。

「お父さんはそればかりを気にしてたんだ。だけど、お祖父ちゃんはお客さん自身に向き合ってたんだって気が付いたんだ」

「お客さん自身?」

「うん。お祖父ちゃんはお客さんを笑顔にする方法は料理だけじゃないって分かってたんだよ。きっと。それが家族を守ることに繋がるってことにもね」

「家族を守る……」

「お祖父ちゃんは家族のためにこの店を作った。このお家は家族を守るための居場所なんだ。だから、家族を守るために家を守る。家を守るために、お客さんも守る。お祖父ちゃんはきっとそうしてたんだ」

「お客さんを……守るの?」

「守るって言い方は語弊があったかな? つまり、お父さんが言いたかったのは、家族が健やかで気持ちよく過ごせるためにはお客さんも幸せでなければならないってことなんだ」

「お客さんの幸せかぁ……」

 私は目を瞑って考える。お客さんが全員暗い顔をして、俯きながら黙々と食事だけをしている光景を思い浮かべてみた。

 確かにお父さんの言う通りかもしれない。

 全員が暗い顔をしている中で、私たち家族三人だけが和気藹々と楽しくお話できる程、私たちの神経は図太くない。

 私たちとは関係ないことだし、私たちまで暗くなる必要はないはずなのだ。だけど、そんなにも思い詰めてる人たちを前にして、能天気にアハハと気持ちよく笑えるわけがないのだ。

 私は目を開けてお父さんの目を見て言う。

「情けは人の為ならずってことだね」

「その通り! よく知っているね! うりゃうりゃ!」

 お父さんは驚いた顔をしたかと思うと、私を抱きしめて子犬とじゃれるようにわしゃわしゃと撫でてくる。

「ソフィはお母さんに似て頭が良いのよね〜! こりゃこりゃ!」

 お母さんも、お父さんと一緒になって私をもみくちゃにしながら抱きしめてきた。

「アハハハハハ〜!やめて〜!」

 私は喉が痛くなる程笑った。お父さんもお母さんも肩で息をするぐらい笑った。

 私は、こんな幸せが続いてほしいと心から思う。

 ふぅふぅと息を整えて、段々と落ち着いてくる。私はお父さんとお母さんを交互に見た。

「お客さんも、幸せにしなきゃね」

 私が笑顔でそう言うと、お父さんとお母さんは互いに目を合わせる。そして二人は私を見て、微笑みながら三人で頷き合った。

 見様見真似でもいい。お祖父ちゃんのようにお客さんと向き合ってみよう。

 パチリと爆ぜる音がした。竈を見ると香木が一際強く燃えていた。