第八話 シェタさんの家族

 シェタさんは私を向かいの席に迎え入れると、ワインをゆっくりと口に含んだ。

 窓の外からは午後の柔らかい陽射しが差し込んでいて、シェタさんの褐色の肌を暖かく照らしている。

「それで、お話を聞いてくださると?」

 シェタさんは目尻の皺をくしゃりと寄せて、おどけた調子でそう言った。

「えぇ。お聞かせくださる?」

 私もおどけた調子に合わせる。深窓の令嬢もかくやとばかりに背筋を伸ばし、テーブルの上で両手を重ねて、笑顔でシェタさんに応じた。

 シェタさんは少し面食らったように眉を上げ、それから微笑んで頷き、コップをテーブルに置いた。陶器がテーブルに当たる小さな音が、静かな店内に響く。

「……さて、何から話したものか」

 シェタさんは腕を組み、窓の外に目を向けた。通りを行き交う人々の足音と、遠くから聞こえる荷馬車の車輪が石畳を転がる音だけが、私たちの間を満たしていた。

「私がこの辺りの出身でないことは?」

「うん。お祖父ちゃんが海の向こうだって言ってた」

「ええ。その通りです」

 シェタさんは静かにそう言った。その声には、懐かしさとも寂しさともつかない、不思議な色合いが混じっている。

 少し間を置いて、シェタさんは続ける。

「私は若い頃に色々あって、祖国を追われてしまいました。そのせいで、二度と故郷の土を踏むことが許されないのです」

 シェタさんは淡々としていた。まるで他人の話をしているかのように。

 だけど、テーブルの上に置いた手が強張っている。

「そうなんだ……。じゃあ、ご家族は……?」

「いや、ご心配なく」

 シェタさんはパッと手から力を抜いて、続ける。

「親族は息災です。私がここで大人しくしている限り、家族に累が及ぶことはない。そういう取り決めでしたから、祖国で健勝に暮らしているはずですよ」

 シェタさんは微かに口角を上げた。それは笑顔と呼ぶには、あまりにも薄い。

「まぁ、だから。……私の人生の役目は、もうとっくに終わっているのです」

「終わってる?」

「ええ。私がここで大人しく死を待つこと。それが妻と娘を守るという、私の役目です」

 シェタさんはそう言うと、窓の外に目を向けた。

 私はシェタさんの横顔を見つめる。シェタさんは遠い目をして、何かを思い起こしているように見えた。

 話が途切れ、店内の音が際立つ。

 厨房からはお父さんが食器を洗う水の音が、客席からはお母さんが布巾でテーブルを拭く音がする。二人とも、こちらの会話に耳を澄ませている気配がした。

「シェタさんの娘さんって、どんな子?」

 私がそう聞くと、シェタさんはこちらに顔を向けて、ふっと表情が緩む。

「……利発な子でした」

 シェタさんはそう言って、懐かしむように目を細めた。

「母親譲りの碧眼と癖毛が愛らしくって……。妻の幼い頃にそっくりでした」

「ふーん」

 シェタさんは口元を綻ばせた。その笑みは、さっきまでの薄い笑みとはまるで違う、柔らかくて温かいものだった。

「そう。あの子は果物が大好物なんです。取り分け、棗椰子なつめやしとなると目の色が変わりましてね。頬を膨らませて夢中で食べていたものですよ」

 シェタさんは自分の右頬を膨らませて、指でつついて見せた。

「ゆっくり食べなさいと、いくら言っても聞きやしない」

 シェタさんの声には、温もりが滲んでいた。私は思わず笑った。

「私と同じだ。私も魚の揚げ焼きが出てきたら止まらなくなっちゃう」

 シェタさんはフフッと笑って、穏やかな目で私を見た。

 その目の奥に、遠い場所にいる誰かの面影を重ねているのだと、私にも分かった。

「他には? 他にも教えて」

 私が身を乗り出すと、シェタさんは少し考えてから、可笑しそうに肩を揺らした。

「一つ、印象的な騒動がありました」

「騒動?」

「娘にはお気に入りのお人形がありましてね。妻が手ずから縫った人形で、それはもう大事にしていました。何をするにも一緒で、どこへ行くにも人形を連れていく始末でして」

 シェタさんは懐かしそうに目を細める。

「ある日、娘は飼い犬に人形を紹介してあげたのです。『仲良くしてね』と。ですが、犬は人形を咥えて走り出してしまった」

「えぇっ!」

「娘は慌てて犬を追いかけました。ですが、犬は遊んでいるつもりですから。追いかければ追いかけるほど逃げ回る。私も一緒になって追いかけました。それでも捕まらないので、従者も侍女も一緒になって追いかけ回して、大騒ぎでした」

 シェタさんは声を出して笑った。

「どんどん人を巻き込み、従僕や女中までも呼び出して、なんとか取り返した頃には、人形は涎まみれ。娘は大泣き。騒ぎの元凶は尻尾を振ってけろっとしている」

 お母さんがカウンターの向こうで「あらまぁ」と笑っているのが聞こえた。

「……」

 シェタさんはそこで言葉を切った。何かが溢れ出しそうなのを堪えるように、口を開いては閉じてを繰り返す。目尻に光が揺れている。

 私は何も言えなくて、ただシェタさんの顔をじっと見つめていた。

 やがて、シェタさんは言葉にするのを諦めた様子で頭を振り、窓の外に視線を移した。

 通りの向こうには、母親に手を引かれた小さな女の子が歩いていた。シェタさんの目がその親子の姿をじっと追っているのが分かった。

 私は、シェタさんの中にあるモヤモヤの正体が、少しずつ見えてきた気がした。