# 第一話 ハルカ
遥は遅刻していた。それはもう大いなる遅刻である。
目が覚めたときには十時過ぎ。リビングのテーブルにはラップをかけた焼き鮭と味噌汁が置いてあった。
母の字で「いい加減にしなさい」と書かれた付箋が貼ってある。
遥はその朝食を慌てずゆっくりと平らげてから家を出た。
どうせ遅刻しているのだ。授業の途中で教室に入ることほど無益なことはない。
「いや~、深夜アニメは体に毒だね」
今期の深夜枠には珍しくロボット物があったので、次の日に響くと分かっていてもリアタイしたくなるのが人情というものだ。
遥は昨日のアニメの主題歌を口ずさみながら海沿いの道を自転車で進む。
「フフフーン♪ フフフフフーン♪」
初夏の暖かい風が潮の匂いを運んでくる。
遥は不愉快にならない程度に夏を感じられる季節に気分を良くしていた。
「うわっ!?」
大きな音がした。まるで、高層ビルの窓ガラスが一斉に割れたような、そんな音だ。
遥は反射的にブレーキを握り、自転車がキィッと甲高い悲鳴を上げて止まる。
周りを見回して音の発生源を探すが、一向に見当たらない。
「なんだなんだ?」
原因が分からず首を傾げ、考える時の癖で顔を上に向けて漸く気付く。空に違和感がある。
「んん?」
遥は目を細めてじっくりと観察する。
なんと、空が割れていた。
青い空に、白いヒビが走っている。
その裂け目は白く輝いていて、晴天の青空の中に在って際立っていた。
遥が間抜け面で眺めている間も、空のヒビはどんどん広がっていく。
ぱきぱきと、細い枝のように分岐し、空を侵食していく。
そしてついには、大きく割れた。
白い裂け目が開き、その奥から何かが落ちてきた。
白い何かが空から落ちてくる。
いや、落ちているのではない。降りている。ゆっくりと海に向かって。
着水は落ち着いたものだった。ズゥゥン、という低い振動が地響きとなって伝わる。
それは人の形をしていた。
頭があり、胴体があり、二本の腕と二本の脚がある。
その白い人型は海に足を浸したまま直立し、頭部を左右に振って辺りを見回している。
大きさは50メートルくらいだろうか。如何せん海にポツンと居るものだから比較がし辛い。
「……ロボじゃん」
遥は自転車に跨ったまま、全身に鳥肌が立った。
夏の陽射しの中で、寒気がしたが、そんなことには構わず、細部を観察していく。
白い装甲が全身を覆っている。分厚くて無骨な装甲だ。
関節部分には銀色の金属が覗く。塗装されていない地金のままの銀色だ。
「塗装してない部分が乙だねぇ」
遥は全身を舐め回すように観察していく。
頭部にはバイザーのような構造があり、そこに何かのレンズらしきものが収まっている。顔はない。表情もない。温かみのかけらもない、ただの機械の頭部だ。
そして特徴的なのは拳だ。拳が異様に大きい。拳全体を覆うように分厚いカバーが付いていて、それ自体がもうひとつの装甲になっているように見えた。
「ロボで肉弾戦を想定? 浪漫が過ぎるよ」
ロボットばかりに夢中になっていたが、いつの間にか空の裂け目が消えていることに気が付く。
裂け目は音もなく閉じていたらしい。空は何事もなかったかのように青い。裂け目があったことを証明するものは何もない。
遥は動けずにいた。ロボットも動かない。
遠巻きに眺めている分には楽しくもあるのだが、自分が下手に動いたら目を付けられてしまうんじゃないかと、本能的な恐怖もあった。
そんな遥とは対照的に、遠くに見える車道では運転手が車から降りてスマホを構えている。
動画を撮っているのだろう。声こそ聞こえないが、興奮した様子で口をパクパクと開いている。
目の前に巨大ロボットが立っているのだ。遥にはその気持ちがよく分かった。
ロボットはそのまま数十秒ほど棒立ちしていた。
先程まで辺りを見回していた頭部も、今は真正面を向いて静止している。
風に装甲が軋む音すらしない。
遥はその異様な静けさに、目が離せなくなっていた。
不意にロボットの頭部が機敏に動き、遥の方を見た。
バイザーの奥のレンズが、焦点を合わせるように動いている。
――あの巨大なロボットが、自分を見ている。
遥の背筋に冷たいものが走った。
ロボットが、腕を上げた。
上半身を捻り、体を遥に向けて、あの異様に大きな拳を持つ右腕を持ち上げた。
人差し指が、一本だけ突き出されている。遥を指差していた。
「……え?」
何か別のものを指しているのだ。自分の後ろに何かあるのだ。そう思って、遥は振り返った。
何もなかった。
道路、ガードレール、山並み。それだけだ。自分の他に人も居ない。
ロボットはまだ遥を指差していた。そして、指を差したまま一歩を踏み出した。
ズゥゥン。
巨大な足が地面を踏みしめた音が腹の底に響く。
海の中で波を立てながら、続けてもう一歩。
ズゥゥン。ズゥゥン。
遥に向かって歩いてくる。ロボットが。指を差したまま近付いてくる。
逃げなきゃ、と頭のどこかで思う。だが足は動かない。
恐怖で動けない?
違う。最早、恐怖は通り越している。只々、目が離せないのだ。
ついには、ロボットが遥の前までやって来た。
太陽の光がロボットに遮られて、遥の周囲が薄暗くなった。
そして、ロボットはゆっくりと跪いた。
